Bが「ヤバイ…近づいて来とるで…どうする?」とかなり慌てた感じで
言っていました。私も内心は心臓がバクバクしながら「コッチに来るとは限らんし、
来そうなら隠れよう」と言いました。しかし確実に足音は私たちのいる
トイレに近づいてきていました。
その時Bがいきなり階段ではない他の大便の個室の扉に手をかけました。
しかし開きません。隣の個室もなぜか開きませんでした。
Bは「クソッ!閉まっとる。あ~クソッ」と小さな声で叫びました。
足音はおそらく15mくらいまで近づいてきています。直感的ですが、私はその時、
足音の連中は間違いなくトイレに来ると確信していました。
Bもきっと同じ予感がしていたのだと思います。
私もBもジッと立ち尽したままでした。
Bは「…仕方ないわ。降りよう」と言い出しました。私は「えっマジで…?」と
返事をしました。あの得体の知れない階段を降りるのはすごく嫌でしたが
トイレ内にはもはや隠れる場所もなく、走り出したところで、
暗闇の中でしかも場所がよく分からないので捕まるだろうと思いました。
深夜の宗教施設という特殊な状況下で判断力も鈍っていたのかもしれません。
足音がもうすぐトイレ付近に差しかかる中、
私とBは個室の扉を開き足音を忍ばせながら下への階段を降りました。
階段はコンクリート造りの階段で、長い階段なのかと思っていましたが、
意外にも10段くらいで下に着きました。真っ暗闇なので何も見えないのですが、
前を歩いていたBが、降りた突き当たりの目の前にあったのだろう扉を開きました。
中には部屋がありました。部屋の天井にはオレンジ色の豆電球がいくつかぶら
下がり、部屋全体は淡いオレンジ色に包まれていました。
私とBはその部屋に入ると、扉をそっと静かに閉めました。部屋を見渡すと、
15畳くらい(よく覚えていません)の何もないコンクリート造りの部屋で、
真ん中には大きく円状のものがぶら下がっていました。説明しにくいですが、
巨大な鉄製のフラフープみたいなものが縦にぶら下がっている感じです。
そのフラフープは部屋の両隅の壁に付くくらい巨大なものでした。
私とBはそんなのを気にせずに、扉の前で硬直していましたが、
私が「Aたちは?おらんじゃん…」と小さな声で言うと、
Bは「わからん、わからん…」とひきつった表情で言っていました。
そして、私たちが聞いていた足音が予感通りトイレの中に入ってきたのが
分かりました。真上から足音がコンクリートを伝って響いてきました。
その足音は3人~4人くらい。私たちはジッと動けないまま、
扉の前で立ち尽していました。
なにやらブツブツ話し声が聞こえてきましたが、
内容まで聞きとれません。話し合うような声に聞こえましたし、
それぞれがなにかをブツブツ呟いているようにも聞こえました。
Bは下をうつむいたまま、目を閉じていました。どのくらい時間が
経ったのか分かりません。私はなにか楽しい事を思い出そうとして、
当時流行っていたお笑い番組「爆SHOW☆プレステージ」を必○に
思い出していました。いつのまにか、トイレ内のブツブツ呟く声は、
3~4人から10人くらいに増えている事に気づきました。
上にいる連中は私たちがココに隠れている事を知っているのではと思いました。
怖くてガタガタ震えてきました。ブツブツブツブツと気味の悪い話し声に
気が遠くなりそうでした。突然ブツブツ呟く声が消えると、
ガタンッと扉が二つ連続して開く音が聞こえた後、さらにガタンッと音がしました。
そのガタンッはトイレの個室を開く音だとすぐに分かり、鳥肌が立ちました。
「他の個室には最初から人が入っていたんじゃないか」
私と同じようにBがその可能性に気づいたのかどうかは分かりませんが、
さっきは鍵が閉まっていたのですから、外から開けたのではなく、
個室から誰かが出てきたんだと思ったのです。
そして階段を降りる足音が聞こえてきました。限界でした。
階段を降りきるまで15秒とかからないでしょう。私はBの腕をギュッと掴みました。
階段を降りる足音が中間地点くらいになった時、
Bは「うわぁぁぁ~」と情けない悲鳴をあげながら私の手を振り払い、
部屋の奥に走り出しました。その時です。Bがあの丸い輪をピョンとジャンプした
瞬間、一瞬でBの姿がなくなったのです。私はただただ唖然としました。
フラフープ状の丸い輪の向こう側に飛び越えるはずなのに、
Bが忽然と姿を消してしまった事に、恐怖よりも放心状態になりました。
私は扉から少し離れ、扉とフラフープの間に立っていました。
「謝ろう!」と思いました。「すみません。勝手に入ってしまいました。
本当にすみません」そう言おうと思いました。
扉がゆっくり開きました。開いた扉の隙間から、わざとらしく、
ひょいっと顔だけが現れました。
王冠のようなものをかぶった老人が顔だけ覗かせこちらを見ていました。
満面の笑みでした。おじいさんかおばあさんかは分かりませんでしたが、
長い白髪に王冠をかぶった、しわくちゃの老人が満面の笑みで私を見ていました。
それは見た事もない悪意に満ちた笑顔で、私は一目見て
「これはまともな人間ではない」と思いました。
話が通じる相手ではないと思ったのです。その老人の無機質な笑顔に一瞬でも
見られたくないと思い、
「はうひゃっ!」と情けない悲鳴が喉の奥から勝手に出てきて、
私もまたBと同じようにフラフープ状の輪に飛びこみました。
目を開くと病室にいました。頭がボーッとしていました。
腕には注射針が刺さり、私は仰向けに寝ていました。
上半身を起きあがらせるのに3分近くかかりました。
窓を見ると綺麗な夕焼けでした。
部屋には人はおらず、個室の病室でした。
何も考えられずただボーッとしていました。
どのくらいの時間ボーッとしていたか分かりません。しばらくすると、
ガチャとドアが開き看護婦さんが現れました。看護婦さんは、
かなり驚いた表情で目を見開くと、そのままどこかに駆け出しました。
私はそれでもボーッとしていました。その後は担当医や他の医師たち数人が来て、
私に何かを話しかけているようでしたが、
私はボーッとしたままだったらしいです。その後時間が経ち意識もだんだんと
鮮明になってきました。
医師からは「さっき○○君の家族呼んだからね。
○○君は長い時間寝ていたんだよ。でも心配しなくていい。
もう大丈夫だよ」と意味不明な事を言われました。
起きてからも時間の感覚がよく分からなかったのですが、
やがて母らしき人と若い女の子が泣きながら病室に入ってきました。
それは母ではありませんでした。それに私の名前は○○でもありません。
母を名乗る女性は「よかった…よかった」と泣いて喜んでいました。
若い女の子は私に「お兄ちゃん、おかえり…」と
言いながら泣き崩れてしまいました。しかし私に妹はいません。
3つ離れた大学生の兄ならいましたが、妹などいません。
私は「誰ですか?誰ですか?」と何度も聞きました。
医師は「後遺症でしょうが時間が経てば大丈夫だと…」みたいな事を
母らしき女性や妹らしき女の子に励ますように言っていました。
「今夜は母さんずっといるからね」と言われました。
私は寝たままいろいろ検査を受け、その際医師に
「僕は○○でもないし、母も違うし妹もいません」と言いました。
しかし医師は「う~ん…記憶にちょっと…う~ん…」と首を傾げていました。
「○○君はね、二年近く寝たきりだったんだよ。だから記憶がまだ完全では
ないんだと思うよ」と言われました。そう言われても、私はショックな
感情すらありませんでした。
現実にいま起きている事が飲み込めなかったのでショックを受ける事さえ
できなかったのです。医師は言葉を選びながら、
私を必○に励ましていました。
母らしき人は記憶喪失にショックを受けて号泣していました。
私は「トイレに行く」とトイレに行きました。立ち上がる際に足が異常に重く、
なかなか立ち上がれずにいると、医師や看護婦や妹らしき人が
手伝ってくれました。